バンコクの湿った夜風に吹かれながら、IPAのグラスを傾けていると、ふと思い出す風景がある。四半世紀前、ニューヨーク郊外で過ごしたあの青い時間だ。(笑)まあでも、本当である。
最近のバンコク、特にプラカノンあたりを歩いていると、かつて日本人がいた場所に、じわじわと韓国や中国のコミュニティが「居抜き」のように
入り込んでいるのを感じる。その光景が、当時のNY郊外で必死に根を張ろうとしていた友人たちの顔と重なるのだ。あの頃、30歳で大学生だった僕の周りにいた日本人は、誰もが「いつか帰国すること」を前提に生きていた。僕も例外ではない。大学生だけでなく、駐在員や現地で就職した日本人も、数年すると必ず日本に帰国する。海外の日本人って、大体がそう言う人々。
一方で、韓国や台湾から来た友人たちのスタンスは、清々しいほどに違っていた。彼らはその地に「残る」ための道筋を、驚くほど素直に、そして懸命に模索していた。ビザやコネクション、あらゆる手段を尽くして異国に食らいつこうとする彼らのバイタリティは、当時の僕にはどこか眩しく映った。
「ケン、帰るな。俺の工場で働け」
僕が資金を使い果たし、いよいよ日本へ帰ることを決めたときのこと。 「帰国するよ」と告げた僕を、本気で、それこそ必死になって引き留めてくれたのは、日本人ではなく韓国人や台湾人の友人たちだった。
特に印象に残っている韓国人の友人がいる。自身も工場で泥臭く働きながら、彼は僕にこう迫った。 「ケン、帰るな。俺の工場で働かないか? なんとかここで生きていく方法を一緒に考えよう」
その熱い言葉に、僕の気持ちはぐらっと揺らいだ。だが、次の瞬間、僕の脳裏には現実的な問題が走馬灯のように駆け巡った。ビザはどうする? 税金は? 労働許可は?……。
彼らは、そうした制度上のルールをコミュニティの知恵と結束力でしなやかにかわし、時には力技でねじ伏せながら生き延びていた。一方の僕は、どうしても「正攻法」や「世間体」を外れることへの恐怖を拭いきれなかった。
ルールを守ることは、当たり前だし、もちろん悪いことではない。けれど、その枠組みを飛び越えてでも「仲間」として僕を繋ぎ止めようとした彼らの前で、自分の中にある「日本人らしさ」の限界を見た気がした。
街の景色を塗り替える「覚悟」の差
今のバンコクを眺めていても、同じことを感じる。
日本人が「南国の生活」を楽しみ、飽きたら去っていく「通過点」として街を見ている間に、彼らはそこを「新しい故郷」にする覚悟で、着実に陣地を広げている。
日本人のコミュニティは、どこか脆い。いや、全体的に脆弱な繋がりだ。互いの動向を遠巻きに眺め、時には冷ややかな視線を送ることさえある。それはきっと、僕ら日本人が「いざとなれば帰る場所がある」という、ある種の甘えの中にいるからかもしれない。
だが、あのNYの工場で僕の手を握り、「残れ」と言ってくれた彼らの放つ熱量は、今の僕にも心地よく響く。自分自身に素直に、泥を啜ってでも異郷に根を張ろうとするその姿勢には、深いリスペクトを感じずにはいられないのだ。